都人にさらしなの月・田毎の月を自慢した真田信之

今年のNHK大河ドラマ信之の書状・小「真田丸」、毎回楽しみに見ています。今は、主人公の幸村以上に、兄の信之(のぶゆき)に関心があります。ドラマが描く戦国時代の後になりますが、信之は江戸時代、真田家の当主となったものの、幕府の命令で領地は上田から松代に変えられます。その時に信之が京都に出した手紙の中で、祖先伝来の領地を失ったことを無念がる一方、新しい領地にはさらしなの里があることを自慢しているのです。

真田淑子さんという真田家の子孫が書いた「小野お通」(風景社刊)という本で紹介されています。小野お通とは、実在した女性で和歌や書に優れて信長、秀吉ら当時の権力者に気に入られ、信之も親交がありました。さらしなの里を自慢する手紙は、このお通に送られたものです。以下、本の中の文面をそのまま引用します。

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たより候まま一筆申候 其後そく才にて候やわれらもいまた命なからへい申候さてさてわれわれ事此たひ国かへのやうなる事にあい申候いまほとは川中島松城と申所に移い申候遠国なからあまり都あたりにもおとりましく候ここもと名所おほき所にて候まつまつあかしの松くらしなの里いにしへ西行かくちすさみ候と申候信のなる明石の松の有なからなと倉しなの里といふらん其外のきはにちかきおはすて山さらしなの月田事の月きりに花咲井ノ上の山も雪気の雲はれてしつかにいつる朝日山三国一ノ善光寺ふれと積らぬあわ雪の浅のと申里里も皆皆われら領分にて候さてもかうけん殿うきよに候はは御なくさみなからそもし様なとも少御くたり候へとも申候はんにさてもかやうになりはてたる世中いにしへ存つつけ我と人しき人しなけれはあさ夕なみたはかりにて候もはや国もかうりもそこからおもしろくも候はす候御すもし候てあはれとせめておほしめし候て給へく候申たき事山山候へ共筆にのこし申候 かしく

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この手紙で信之は「ここもと名所おほき所にて」と書き、その後に名所を列挙しており、さらしなの里に直接関係するのは中ほどの「おはすて山さらしなの月田事の月」のくだりです。戦国時代には姨捨の棚田とさらしなの月が「田毎の月」として有名になっていた証拠でもあります。手紙では領地の名所としてほかにもいくつもあげています。「くらしなの里」のくだりの前後には松のことが書いてあります。倉科地区の歴史に詳しい方、ご教示ください。ほかにも、「きりに花咲井ノ上の山も雪気の雲はれてしつかにいつる朝日山三国一ノ善光寺ふれと積らぬあわ雪の浅のと申里里」とあります。善光寺は分かりますが、ほかはなんのことでしょうか。

写真は、信之がお通にあてた直筆の手紙。赤字をそえたところが、さらしなの里についての部分。クリックすると拡大します。真田淑子さんの本「小野お通」の口絵にのっているものです。信之のこの手紙の存在は、千曲市鋳物師屋の会社経営者で「さらしなルネサンス」副会長の馬場條さんが信濃毎日新聞で紹介されていたと教えてくれました。今回手にすることができた本は国立国会図書館所蔵のもので、貸し出しを受け、コピーもとることができました。(大谷善邦)

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