「科野(屋代地区)」と「さらしな」という二つの地域がある千曲市。二つを掛け合わせることで、大きな広がりができるのではないかと考えシンポジウム(令和2年度主要事業)などを計画し始めたのですが、コロナのために延期となりました。しかし、「科野」について造詣の深い方にお話を聞きたいということで、7月18日に行ったさらしなルネサンスの理事会の前半は,柄木田文明さんをお招きして、「雨宮の御神事」(あめのみやのごじんじ)についてお話をお聞きしました。
柄木田文明さんは雨宮在住で、以前は東京の成蹊中学・高等学校で社会科の先生をされており、退職後帰郷されたそうです。千曲市東部を研究の対象とされ、「松代藩宝暦改革と月割上納制」や「近世後期在村知識人の思想と行動 : 信州埴科郡中条唯七郎の場合」などの著作があります。雨宮の御神事についても調査研究されており、今回はその講演をしていただきました。
御神事は毎年4月の二度目の申(さる)の日に実施するとなっていたそうですが、昭和47年以降は3年ごとの4月29日に実施となりました。現在に伝承されている御神事は江戸時代に完成したそうです。江戸時代には毎年、御神事を行っており休祭は善光寺大地震の時の1回だけだったそうです。御神事を毎年同じように実施すること(実施できる事)が平和的な秩序そのものであると考えられていたそうです。逆に言うと,御神事を変更すると大きな惨事がもたらされるということでした。享和3年(1803年)に、桑の出荷の都合に合わせて日程を変えたところ、神罰が当たり大霜になり桑が全滅した、という話には思わず笑ってしまいました。明治に入り、その後の第二次世界大戦終了までの約80年間での休祭は20回。江戸時代とは明らかに変わったと言えます。
祭の特徴は,御神事踊の配置が変わらずに伝承されてきたことです。総勢204名で続いています。祭のクライマックスの「橋懸り」は,四人の若者が逆さづりになり激しく水面をたたく場面ですが,これは4本の柱で聖なる空間を作り,悪霊を流すという意味だそうです。
雨宮地区は古代、埴科郡司が治めた地域です。千曲川の洪水で壊滅したと考えられますが、当時営まれていた祭礼の名残が雨宮の御神事にあると考えていいのではと柄木田さんは言います。埴科郡があった地は科野と書かれたところで、科野の漢字を変えて今私たちが知る「信濃の国」となりました。雨宮の御神事を見つめれば古代の科野の姿も見えてくるかもしれません。千曲川をはさんで科野の西側に広がっていたのが更級郡です。「科野・さらしなの里」シンポジウムの組み立て方の大きなヒントを柄木田さんからいただきました。
残念ながら今年の雨宮の御神事はコロナの影響で中止となってしまいました。こういうときこそ「悪霊退散」を願うお祭りは実施したかったという気もしました。 (さらしなルネサンス理事・大谷公人)