日本の重要文化的景観に指定されている「姨捨の棚田」はいかにできたのか。現地を歩いて、地学研究者の講演も聞くイベントが6月24 日、開かれました。地学団体研究会の長野支部と地元の更級人(さらんど)「風月の会」の共催です。現在の棚田の地形と景観は、千曲市から麻績村に抜ける猿ケ馬場峠(さるがばんばとうげ)にそびえる三峯山(みつみねさん)の北側が崩壊して発生した地すべりでできたことは知っていたのですが、今一つイメージがわきませんでした。イベントに参加して一番知りたかったのは、目に見える地すべりの痕跡・歴史と、なぜ地すべりが起きたのかという二つの点でした。
案内してくれた地学研究者は、信州大学名誉教授の赤羽貞幸さん(地質学)と塚原弘昭さん(地震学)。お二人の話を、ここにアップしたグーグルマップの写真で紹介します。三峯山は猿ケ馬場峠の聖湖の横にそびえる山(1131m)で、三峯というのは善光寺平から南の方角に、三つの峯が並んだ見えることからの名前という説があります。この中で峯が一番高く、南寄りにある峯の頂上に三峯山の標識が立っています。
◆粘土と一緒にすべり下った姨岩
3枚組写真はいずれも北側から見たもので、上から三峯山のアップ、真ん中が少し引いた景色、下が姨捨の棚田まで全景を入れたものです。まず上の写真をご覧ください。三峯山頂の後ろの南側が麻績村で、手前の北側におおきな崖の斜面が見えます。そのすぐ下に広がる平地状の部分が現在、千曲高原カントリークラブ―のゴルフコースになっているところ。この大きながけの部分が約35~40万年前に起きた三峯山の最初の大崩壊の痕跡だそうです。さらにゴルフコースの下に姨捨の棚田をうるおす水の溜池「大池」などがある平地がありますが、これが約12万年前に起きた、次の大きな地すべり。こうした大きな地すべりがその後も何度か起きていくうちに土や岩石が混然一体となって千曲川近くにすべり下り、現在の棚田の地形ができあがりました。
長楽寺の巨岩の姨岩(おばいわ)も、その地すべりの土の中にまじっていた岩の一つで、三峯山方面からすべり下ったのだそうです。
◆降った雨をすべて棚田水に活用
こうした地形の成り立ちが実は棚田にとって大変重要だそうです。大池が棚田を潤す溜池となっているのは、その上のゴルフ場の面や三峯山に降った雨が浸み込み、その下の大池がある面に湧き出し、それを大池にためているのです。地元に降った雨をむだにせず、たくわえ、有効利用しているわけです。自給自足、地産地消。
◆山体の崩壊と地すべりが相次いだ理由
それではなぜ、三峯山は大崩壊したのか。赤羽貞幸先生は考えられる三つの理由を挙げました。キーワードは熱水変質、西山隆起盆地下降、近くの活断層の三つです。
熱水変質というのは、はるか昔、マグマが溶岩となって噴出したとき、熱い蒸気を浴び続けると、粘土に変わること。三峯山の頂上部はこの熱水変質を受けたものでできていて、もともと崩れやすい地質だったそうです。姨捨の棚田の土は粘土質であることが特徴ですが、それは三峯山がそもそもそういう地質だったためです。先に紹介した長楽寺の姨岩は、熱水変質を受けなかった岩石として三峯山の中にあったもので、山体の大崩壊によって粘土と一緒にすべり下ったのだそうです。
この崩れやすい地質を崩す働きの力となったのが、これもはるか昔から今にいたるまで続いている、善光寺平の西側山地の隆起と善光寺平の平地部分の下降。そして善光寺平の西側を南北に走る活断層。この活断層は江戸時代の弘化期(1847年)に起き、北信一帯に甚大な被害を出した善光寺地震を引き起こしたものです。つまり、三峯山の周辺では大地を上下させたり、大地を南北、東西に動かす力が働いており、それが粘土質の、比較的やわらかい三峯山の山体を大崩壊させ、大規模な地すべりを繰り返させてきた可能性があるそうです。
知っておかなければいけないのは、大地を動かすそうした力は今も働き続けているということです。日本の重要文化的景観である現在の姨捨の棚田も実はあくまで現在の姿、ずっとあり続けるわけではないということ。なんともいとおしい景観。下は参加者で歩いたツアーの写真です。(大谷善邦)