5月7日の当サイトでお知らせした、京都伏見特集の「ブラタモリ」。再放送(5月18日午前1時55分)が待ち切れずにNHKオンデマンドで見ました。よく知らなくて驚いたこと、そして、うれしかったことがありました。
よく知らなかったことは、秀吉が伏見を日本の首都にしようとして城をつくった可能性があることです。城の位置は京都、大阪、さらに奈良までが見渡せる丘の上。城の周りには仙台の伊達政宗をはじめ有力武将に屋敷を構えさせ、のちの家康の江戸城の先例でもある。さらに、物資が伏見にしっかり流通するよう大掛かりな土木工事も行っていたことからそう言えるそうです。
うれしかったことは、伏見を首都にしようとしたもう一つの大きな理由が城下に展開する月の美しさで、その証拠はさらしなの月をライバル視する秀吉の和歌、と番組が紹介していたことでした。
実は、伏見城と一般的に呼ばれる城は大きく二つあり、一つは地震でこわれるまでの最初の城、もう一つは再建された城です。再建された城は、現在の明治天皇陵などがある木幡山(こはたやま)と呼ばれる丘の上にあったことから伏見木幡城と呼ばれ、最初のは指月(しげつ)という地籍にあったことから伏見指月城と呼んで区別されます。指月は京都一の湖の巨椋池(おぐらいけ)を目の前にしたところで、平安時代から観月の名所でした。秀吉は過去の日本の都を一望でき、大阪という巨大経済圏とつながるという条件に加え、この指月の前に広がる月の美しい景色を自分のものにしたいと考えたでのはないかというのです。それを裏付ける証拠として秀吉の和歌「さらしなやおしま(雄島)の月もよそならんただ伏見江の秋の夕暮れ」が紹介されていました。
食料増産のため戦前、水が抜かれ埋め立てられてしまった巨椋池ですが、番組では指月城下に広がっていた巨椋池のイメージ映像が現われ、湖面の上空、雲が晴れて現れる月が感動的でした。 月と巨椋池の水が織りなす景色の美しさは、さらしなの里の月と千曲川の関係と同じです。仙台の松島のことを指す「おしま」も松島湾という大きな水たまりであることを考えると、秀吉の頭の中では、さらしなの月の美しさは千曲川の水の流れとセットでイメージされていた可能性があります。
もう一つ、想像をたくましくしています。秀吉が死んだ後になりますが、伊達政宗もさらしな月を和歌に詠んでいます。それは「曇るとも照るとも同じ秋の夜のその名は四方(よも)にさらしなの月」。伏見城下に屋敷を構えていた政宗は、生前の秀吉から景色の美しさを自慢され、さらしなと雄島(松島)を詠みこんだ自分の和歌を政宗に披露していたのではないか。そんなことを政宗の和歌は感じさせます。政宗のさらしなの和歌については次のサイトもご覧ください。http://www.sarashinado.com/2014/06/03/masamune/
なお、再建された伏見木幡城も、江戸時代に取り壊され、現在はありません。上の写真は木幡城があった城跡に昭和時代につくられたコンクリートの城。公開されていません。(大谷善邦)