松尾芭蕉が「更科紀行」の旅でさらしなの中秋名月を見たあと、江戸に戻る途中立ち寄って俳句を詠んだ可能性があるスポットが、千曲市の東隣の坂城町網掛(あみかけ)区にあります。「十六夜(いざよい)観月殿」という茅葺の建物が立つ小高い山で、千曲川が直下に広がっています。「十六夜観月殿」の呼び名は、芭蕉が詠んで更科紀行の中に入れている「十六夜もまだ更科の郡(こおり)かな」の句にもちなんだものです。10月20日(日)には、地元でこの観月殿を含む史跡めぐりがあるということだったので、初めて訪ねてから16年ぶりに観月殿を見に行きました。この日は晴れ。屋根は新しい萱に葺き替えられ、板戸も外され、中に上がることができました。眼下には千曲川、その向こうには埴科郡の東山の山並みががまじかに迫り、この地が月見の名所として続いてきたとを前回以上に実感できました。網掛区もかつては更級郡村上村に所属し、さらしなの里の一角でした。十六夜観月殿も日本遺産「月の都」の構成遺産に入っていればいいのにと思います。
十六夜観月殿の始まりは室町時代にさかのぼります。地元に伝わる歴史などによると、近くにある「村上大國魂社(むらかみおおくにたましゃ)」という神社をつくったのが、平安時代の村上天皇の第4皇子で、その後、時の上皇をのろう呪詛事件に関わったとされる「源盛清(みなもとのもりきよ)」がこの地に流され、室町時代の子孫の「村上満清」が観月殿を造立したということです。源盛清が詠んだ「六十の老いの友とて十六夜の月のみを見て世を終わるかな」という哀歌も伝わっています。なお、源盛清は、武田信玄を2度破ったことで知られる名将「村上義清」の祖先にあたる人です。
中秋十五夜の日、芭蕉が千曲市八幡の長楽寺に立ち寄ったことは史実となっていますが、十六夜観月殿への芭蕉の立ち寄りを示す史料はないということです。しかし、「更科紀行」によれば、さらしなの里姨捨の後、善光寺を訪ね、江戸に戻ったことになっており、十六夜は十五夜の翌日なので、旅程の上でも、現在の坂城町にいておかしくありません。十五夜の翌日も、月が美しい「更科の里(郡)」に滞在していられる喜びを詠んだ句が「十六夜もまだ更科の郡かな」です。十六夜観月殿の近くには芭蕉来訪から約140年後の1829年(文政12年)、この句を刻んた句碑が建立されました。地元では今も俳句づくりが熱心に行われ、観月殿の天井にも俳句がたくさん墨書されています。
十六夜観月殿にまつわる平安から室町時代の歴史を知って、いかにも芭蕉が立ち寄りたくなったところだなと思いました。木曽義仲や源義経といった敗者が大好きだったのが芭蕉です。都から流された貴族、その貴族が詠んだ哀しみの歌、そして結果的には郷里に戻れず亡くなった戦国時代の村上義清…。芭蕉がこうした経緯をすべて知っていたかは分かりませんが、各地の門人から情報をたくさん手に入れていた芭蕉なので、十六夜観月殿に特別な思いを寄せても不思議ではありません。
さらしなルネサンスでは2025年、地元の歴史同好会の方々とご一緒に、十六夜観月殿をはじめとする史跡ウオーキングを開催できればと思っています。具体的になりましたら、知らせします。
16年前の2008年に十六夜観月殿を訪ねて書いたものもは、次をクリックしてご覧ください。(大谷善邦)