「田毎の月」を世にしらしめた広重の浮世絵 その成立の謎を解き明かす論考です

 日本遺産「月の都」千曲市の宝「田毎の月」。その魅力を全国に知らしめた歌川広重の浮世絵の成立過程と、その構図の秘密を解き明かす論考を、さらしなルネサンス会員の山岸哲さん(元山階鳥類研究所所長)と近世文学研究者の玉城司さんがまとめました。浮世絵の左にそびえる山は、鏡台山(きょうだいさん)と冠着山(かむりきやま)を重ねた図柄という説にはびっくりしました。広重は当地にやってきて実際に光景を見たうえで作画したそうです。山岸さんは「この試論を専門家をはじめ多くの人に読んでもらい、ご批判とご指導をお願いしたい」と言っています(山岸さんの連絡先は末尾に記載)。なお以下の文章は山岸さんと玉城さんの論文「『信濃更科 田毎月 鏡臺山』はいかに成立したか― 歌川広重の頭の中に分け入る ―」の要約版です。

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「信濃更科田毎月鏡臺山」(千曲市教育委員会蔵)

はじめに

ここに一枚の浮世絵「六十余州名所図会 信濃更科 田毎月 鏡臺山」がある。浮世絵師・歌川広重が描いたもので、版元「越平(越村屋平助)」の勧めで、嘉永6年8月にこの浮世絵が出版されたという(岩波書店刊『広重 六十余州名所図会』の解説による)。

本論考は、広重のこの浮世絵がどのようにでき上がったのか、「美術」とは無縁の二人がその成立過程を追い求めたものである。あらかじめ結論を言えば、広重の「信濃更科田毎月鏡臺山」は、広重自身による写生と先行する刷り物を模倣した、二つのルートが融合して成立した浮世絵である。

1,田毎の月を描いた、広重の作品 (模倣ルートの検証)

図1は、「信濃更科田毎月鏡臺山」に至る二つのルートを成立順(推定)によって整理したものである。図1-Aは、文友昇(ぶん ゆうしょう)の絵による一枚刷り「更級郡姨捨山十三景圖」で、「天保四年癸巳(1833)十一月増補再版東都篶垣真葛校」の識語がある。これによって天保4年以前に出版されていたことがわかる。

「更級郡姨捨山十三景圖」は、鏡台山を含めた更級郡姨捨山周辺全域に目配りし、田毎に月が描かれている点で俳書の挿絵や伯先(はくせん)の一枚刷りと大きく異なっている。長楽寺を中心とした「姨捨山十三景」を描くことによって、この地域一帯を名所として位置づけようとする意図があり、実際にその魅力を発信することになっただろう。購入者の飛躍的な拡大に繋がったことは想像に難くない。

「本朝名所信州更科田毎之月」(図1-Bは、「更科」全体をテーマに描きながらも、鏡台山と田毎の月、姨石(観音堂・長楽寺)に焦点をしぼって描かれた最初の浮世絵である。

図1-B図1-Aの構図に応えるように、二峰が描かれ、見上げるアングルのためか姨石の下の長楽寺と観音堂の下方がかなり急勾配で崖のように描かれ、その下に「四十八枚田」と思われる水田に映る月が描き込まれている。長楽寺の下方が不自然に急勾配なのは、文友昇の絵が相当急勾配だったからであり、図1-Aを粉本とした可能性を否定できない。

さらに、重要なことを二つ指摘しておきたい。一つは、広重が背後に描いた二峰のうち左は「鏡台山」、右は「冠着山」であったと考えられることだ。文友昇は千曲川の東岸に「鏡臺山」を、「カムリキ山」を西岸に、千曲川をはさむことによって、位置関係をほぼ正確に描いている(写真1)。また、文友昇は遠く離れた両山を一枚の絵に収めるために、俯瞰の手法を取り入れている。これに対して実際に風景を見ていないまま描いた広重は千曲川で隔てられた両山を一続きの連峰として描いている点である。

もう一つは、この時すでに広重は月をすべての田んぼに映しているが、これは彼が本当にそう信じていたのか、デフォルメしたかは定かではないが、図1-Aが先行することを確認できることである。

図1-Aを出版した篶垣真葛(こもがきまくず)は、天保7年に『狂歌鐘声百人一首』を出版し、その人物画を広重が描いていることから、二人には深い交流があったと推察できることも加えておきたい。増補再版するほど人気があった図1-Aの一枚刷りを参照して、図1-Bが出来上がったものと推測される。その制作年はボストン美術館のサイトによると天保8年(1837)だという(付録図版Bを参照)。

2,広重の信濃への旅 (写生ルートの検証)

広重は、狂歌集『岐蘇名所図会』の挿絵を依頼されて 木曽路を旅した。依頼主は選者の梅廼屋鶴子(うめのやつるこ 1802-1864)と檜園梅明(1793-1859)だっただろう。これ以前に広重が信濃を訪れたという記録は見当たらなく、江東区深川江戸資料館広報紙88号の「広重の旅④」によると、この旅は天保8年(1837)だったという(岩波書店刊『広重 六十余州名所図会』の解説では嘉永元年(1848))。

「広重のスケッチ」(図1-C)は、この時のスケッチ帖の一部、で大英博物館に収蔵されている(『秘蔵浮世絵大観』1所載)。スケッチ帖の同じページには善光寺本堂の素描、別のページには千曲川の渡しの風景などが見られることから、広重は木曽路から足を延ばして実際に更科の辺りを訪れたことがわかる。

広重のスケッチがなされた場所を特定すべく、長楽寺の周辺を探してみた。それはスケッチの構図(図1-C)から考えて、写真2-aを撮影した場所だと推定される。この辺りから彼はスケッチしたのだろう。そこで、彼が驚いたことは、彼が描きたかっただろう「名月の名所・鏡臺山」は長楽寺方向にはなく、そこには丸っこい「冠着山(姨捨山)」が見えるだけだったのである。

彼のスケッチを見ると、本来「冠着山」のあるべき位置に「鏡臺山」と添え書きされた山が描かれている。彼は「冠着山」と「鏡台山」を取り違えたのであろうか? 私たちはそうは思わない。理由は、目を凝らすとこの山塊は「ギザギザの山」と「丸っこい山」の二つが重なっていることが明瞭であるからだ。では、隠された山はどちらか? それは間違いなく山頂の形から「冠着山」であろう。写真2-aの稜線が二山あり、右側がやや低いことまでスケッチでは正確に写し取っていることがわかる(図1-C、付録図版C)。

彼は千曲川の東岸にあった「鏡台山」を思い切って「冠着山」にスッポリと重ねてしまったのである。彼がスケッチした場所から「冠着山」を眺めた時、気になったのは冠着山の前に広がる「姪石・曽根棚田のある尾根部」だっただろう。それはスケッチでは消し去られている。写真2-aから、中景の「姪石・曽根棚田」と人家を消し去ったのが写真2-bで、これは広重のスケッチ(写真2-c・付録図版C)そのものである。

彼の中では、「信濃更科」といえば、「田毎の月」と「鏡臺山」であり、どうしても「鏡臺山」を描きたかったらしい。その理由は、古くから「田毎の月」で知られていた月の名所では、月を写す鏡の台(うてな)としての鏡台山が必要不可欠であると見たからではあるまいか。言葉遊びに過ぎないようだが、判じ絵が流行した江戸後期の人々にとって、謎解きをする喜びもあり、すでに、二つの山を連山として描いていた広重にしてみれば(図1-B)、二つの山を重ねてしまうことに抵抗がなかったのかもしれない。

広重は、スケッチ(図1-C)に基づいて『岐蘇名所図会』の挿絵(図1-D)と写生画(図1-E)を描いた、と考えられる。(図1-C)の画面右の中腹の堂宇は長楽寺と観音堂であり、その背後の大きな石は、姨石であろう。その下に広がるのは、「四十八枚田」らしいが、ここには田毎の月が描かれていない。注目すべきは、画面左の山に「鏡臺山」と書き入れていることである。

図1-D)は、(図1-C)を横に広げただけで、まったく同じ構図である。しかし、鏡台山の上には月が描かれ、夜の風景と見るように仕向けられている。『岐蘇名所図会』の奥書によると、この狂歌集が刊行されたのは、嘉永5年(1852)か翌年である。

図1-E)の構図はスケッチ(図1-C)とほぼ同じである。しかし、こちらは、「信濃更科」と記した下に落款があることからみて、完成した写生画とみるべきである。

写生画は、スケッチよりも姨石や長楽寺の堂宇や聖堂らしき建物や一帯の木々が鏡台山に迫り、山頂に満月が描かれている点に特徴がある。月の背後の空には薄い青が彩色されているほかは墨彩で、下方には山頂の月と対照的に棚田らしき水面が描かれている。この絵が描かれたのは、広重が信濃へ来たという天保8年(1837)と思われる。

3,「信濃更科田毎月 鏡臺山」(図1-F)の完成 (写生と模倣ルートの融合)

本論考の最大の核心は、「広重は、写生であるにもかかわらず、なぜ鏡台山と冠着山を重ね、あのように巨大な山塊を創出したのか?」という問いに答えることにある。私たちは、広重の描いた絵の構図から彼の頭の中に分け入ろうと試みたのであるが、これについては広重の声をすでに聴いた研究者がいる。

『歌川広重の声を聴く―風景への眼差しと願い―』(京大学術出版会、2018)を出版した阿部美香氏である。彼女は、広重晩年の『絵本江戸土産』に書き込まれた広重自身の言葉を分析し、広重の風景観に迫ったが、彼女によるとこういうことになる。

(広重の絵は)「描く対象が選択されている」。そのような「選択」的描写が意味するものは何なのか。それは、「この場所の風景といえば、これらの事物が存在するのだろうというイメージの充足に他ならない」と述べている。また別のところでは、「画面中央に日本画の伝統表現である雲が横たわり、描写物を選択したうえで対象をつなぎ距離を調整して富士山を実際よりも大きく配している。」(同書64頁)と記している。

いよいよ最後の段階である。広重が「姨捨の田毎月」を描くことになったのは、『六十余州名所図会』のうちの「信濃 更科田毎月 鏡臺山(図1-F)を依頼されたときだった。広重は迷うことなく、自身の前作「本朝名所信州更科田毎之月」(図1-B)から四十八枚田に映る「田毎の月」を張り付け、これに写生画(図1-E)の「鏡台山」を強調して構図を縦長にして世に出したことは想像に難くなく、楢崎宗重氏によってかねてから指摘されている(『秘蔵浮世絵大観1』解説)。図1-Bの長楽寺が崖の上にあるかのような不自然さは消えているのは、彼がすでに実際の風景を見ていたからであろう。画面の中央上方に月、左に鏡台山、右に姨石と長楽寺と観音堂の堂宇、右下に田毎の月が描かれた絵(図1-F)は、広重の頭の中にあった「模倣ルート」と「写生ルート」を融合した作品なのである。

むすび

本論考を閉じるにあたり、一言書き添えたい。広重に限らず、手本になる作品(「粉本(種本)」)が存在し、それと自らの写生を融合させて新たな作品を創作することは、美術史あるいは浮世絵史界では周知のことなのだろうが、しかし、「信濃更科田毎月鏡臺山」という特定の作品について、現地をしっかり踏査したうえで、ここまで成立過程を詳細に追跡できたのは初めてではあるまいか。さらにその過程で「冠着山(姨捨山)」と「鏡台山」が重ね合わされてしまったのではないかという私たちの説は、これまで提起されてこなかったようだ。

専門家ではない二人が大胆不敵にも本論考を世に問うのは、これ以上の探索は二人には難しく、この試論を専門家の更なる検討と吟味に任せたいと願ったからである。専門家の厳しいご批判とご指導をお待ちしたい。なお、これに関連して、山岸が「歌川広重 田毎の月の謎」と題するビデオ作品を発表している。それは「東京ビデオフェスティバル」の「TVF2024アワード」に入選しているので、こちらも併せてご覧いただければ幸いである(https://www.youtube.com/watch?v=i_9_19o6I_g)。

山岸哲     長野県生まれ(1939年)。鳥類学者。大阪市立大学名誉教授。元京都大学教授。元山階鳥類研究所長。 (長野県長野市檀田2丁目23-23)メールはsatoyamagishi100@gmail.com

玉城司 長野県生まれ(1953年)。近世文学研究者。元清泉女学院大学教授。信州古典研究所代表。(長野県長野市上駒沢 51-10)

参考文献

小林秀雄他編『世界素描大系 Ⅳ』「東洋 スペイン イギリス アメリカ 現代」(講談社、1976年)

楢崎宗重編著『秘蔵浮世絵大観 1 大英博物館Ⅰ』(講談社、1987)

矢羽勝幸著『姨捨山の文学』(信濃毎日新聞社、1988年)

鈴木重三監修『広重六十余州名所図会』(岩波書店、1996年)

千曲市文化財センター編集『姨捨の棚田ガイドブック』(ほおずき書房、2013年)

千曲市教育委員会文化財センター編集『名勝「姨捨(田毎の月)」保存管理計画』(改訂版)(千曲市教育委員会、2014年)

阿部美香著『歌川広重の声を聴く』(京都大学学術出版会、2018年)

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