全国各地にある「更科」-さらしなの里そば祭り開催

 さらしなルネサンスは20日、「さらしなの蕎麦あれこれ」と題する第3回さらしな学わくわく講座を開きました。真っ白な「さらしなそば」の呼び名は、信州千曲市にある「さらしなの里」の地名をもとにできたものです。この日開かれた第3回「千曲川マルシェ&さらしなの里そば祭り」で、そのことをさらしなのそばにまつわるスライド写真をご覧いただきながら説明し、「さらしな」に寄せられてきた人々の思いを紹介しました。

 「さらしな」という地名は、今から約1400年前の飛鳥時代には都に知られていました。天皇中心の国家を作るときに、日本をいくつもの国に編成、その国をさらに郡に分けました。長野県は「信濃国」と記されました。信濃国は10の郡からなり、その一つが「更級郡」でした。郡を構成してきた町や村は小さかったので、明治以降、合併させて大きくする施策を政府が進め、更級郡の町村の多くは北側の長野市に吸収合併され、ついに2005年、最後まで残っていた更級郡大岡村も長野市となり、更級郡は消滅しました。さらしなルネサンスは、都の人たちが更級郡のシンボル的な山と見ていた冠着山(別名姨捨山、旧更級村)が信州千曲市にあることから、この冠着山のすそ野に広がる一帯を「さらしなの里」とあらためて呼び、文化教育、経済活動に生かそうとしています。

 こうした歴史を持つ「さらしな」がなぜそばの名前に使われたか。それは江戸時代後半、江戸で更級郡とゆかりのある祖先を持ち、そば打ちの腕前が良かった人が白いそばを打つことができるようになり、その人が白いそばに「更科」という名前をつけたのが始まりです。黒色系のそばばかりの中で白いそばがあることが珍重され、評判になって多くの人に知られるようになったのです。白いさらしなそばは、そばの実の中心部分の白い粉(一番粉、更科粉)を原料に作ります。片栗粉と同じようにでんぷんが成分なので、そば切りにするのは難しかったことも珍しがれた理由だと思います。それゆえにそばの「更科」は、そばを打つ職人と食べる客にとって、価値のある呼び名となり、店の名を「更科」とするそば処が全国に広がりました。

 インターネットの地図サービスで「更科」をキーワードに検索すると、東京はもちろん、京都、名古屋など大都市だけでなく、北海道から九州まで(沖縄は不明)、「更科」というそば処があまたあることがわかります。必ずしも白いさらしなそばを出すとは限らず、普通のそばや食事を供する店も多いようですが、それは「更科」という店名にすると、客が集まるということの証拠だと思います。

 講座では、京都や東京の「更科」という名前のそば店や、さらしな粉10割のそば打ち名人、根本忠明さんのことを紹介しました。「鉄腕アトム」の手塚治虫さんが愛した和菓子が「更科」という名前のそばまんじゅうであったことや、焼きそばにも「さらしな焼きそば」があること、さらに、松尾芭蕉のそばの句「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」を刻んだ句碑がさらしなの里にあることも紹介しました。

 さて、では「さらしな」という地名はどのようにできたのか。さらしなルネサンスがこれまで調べてきたところでは、信濃国(しなのこく)の信(しな)がもとになっているのではとみています。「しな」の前に「さら」をつけたのです。信濃国のもとになる地名は、飛鳥時代の信州千曲市域を含む一帯が「科野(しなの」と呼ばれていたからとされ、「さらしな」はその「科野」の領域に含まれています。いわば「科野」は「更級」の親地名です。信州千曲市の観光ビジョンは「科野さらしなの里千曲」ですが、このビジョンはこうした歴史を踏まえていると言えます。

 白いそばに「さらしな」の名前を与え、全国に広がった理由として、白いものが大好きな日本人の美意識が関係していると考えています。このことについて12月15日開催の第4回さらしな学わくわく講座(姨捨観光会館)でさらに紹介します。

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