信濃国更級郡姨捨山のほとりに。。。

さらしなルネサンスのメンバーで、長野市の長谷寺の住職の岡澤です。

千曲市のさらしななのに「どうして?」とお思いの方もあると思いますが、昭和の頃まで、長谷寺のある塩崎地区は「更級郡」でした。

ですから、地元塩崎小学校の校歌にも、「千曲の川の西に沿い、更級の山ほど近く」と歌われています。

ですので、私ども長谷寺も、1400年という長い歴史を伝えていますが、そのほとんどが更級郡の中で歩んできたお寺と言ってよいのです。

そんなわけで、この更級の魅力を伝えていこうという「さらしなルネサンス」にも参加しています。

「長谷寺霊験記」という鎌倉時代の古文書が、奈良の長谷寺に伝えられています。

この大きなお寺は、観音信仰の発展や女性と仏教との関わりにおいて、日本の仏教の中でも特別な存在です。

その寺に伝わる「長谷寺霊験記」には、全国の長谷観音の霊験譚が多数収録されています。

当時よく知られていたお話を、お坊さんたちが収録したものと言われていますが、この中に、私ども長谷寺のお話も登場します。

紹介されるお話しの内容もお伝えしたいのですが、今回はその冒頭の言葉だけをご紹介します。

それはこんなふうに始まりす。

仁王三十五代、舒明天皇の御宇に、当寺(大和長谷寺)の宝石も観音も、いまだ顕れたまわざる前一百年ばかりに、信濃国更級郡姨捨山のほとりに、允恭天皇六代の孫、白介(白助に同じ)の翁という人おわしき。

最初に「いつ」ということで「仁王三十五代、舒明天皇の御宇に、当寺の宝石も観音も、いまだ顕れたまわざる前一百年ばかりに」と、時代が語られます。

次に「どこで」と場所を紹介するにあたって、「信濃国更級郡姨捨山のほとりに」と語ります。

この場所の紹介の仕方は、この「長谷寺霊験記」という書物が、全国の数ある長谷観音の霊験譚を記載して、当時の都の人々に紹介する、いわば「全国長谷観音御利益マップ」みたいなものであったことを考えると、「信濃国更級郡姨捨山のほとりに」という語り口は、当時の人々にとって大変分かりやすい、イメージしやすい文句であったものと思われます。

例えば『北海道の札幌の時計台のそばに』と言えば、すぐに『ああ』と思い浮かぶように、「信濃国更級郡姨捨山のほとりに」というだけで、当時の人々は一定のイメージとともに「さらしな」の風景を思い浮かべることが出来たのだと思われます。

「信濃」「更級」「姨捨」と、このまるで「バース」「掛布」「岡田」のような三連発によって、当時の人々は何かこの地域に対する特有の、そして確固たるイメージを描くことが出来たのではないでしょうか。

そのイメージなんなのか、それを探求していくのも、この「さらしなルネサンス」の使命ですが、特別に探究などしなくても現代の私たちであっても、「信濃国更級郡姨捨山」とくれば、「月」が直ちに浮かんでくるわけですから、きっと当時の人々もまた「月」というものが、特別な美しさとともに思い描かれる場所として「信濃国更級郡姨捨山」をイメージしていたものと思います。

月は実に豊饒なイメージや象徴として私たちの夜空にかかりますが、何より満ちては欠け、欠けては満ちるその姿から、古来「再生」の象徴として重視されてきました。死と再生の月。その月と密接に関わる「更級」もまた、きっと「再生」を深くテーマとする場所なのでしょう。

実は、長谷寺開基の物語は、「再生」ということがひとつの大きなテーマです。あるいは「浄化」ということがテーマなのですが、この物語が「信濃国更級郡姨捨山のほとりに」とはじまること、またここを舞台とすることには、この物語のテーマが「さらしな」の場所性と密接にかかわるものであるのだろうと、私は考えています。

そんなわけで、私はこの「さらしなルネサンス」という、夢のある地域おこしに参加しながら、寺の開基の源に通じていく「更級」という場所が秘める「再生」のイメージをたどっていきたいな、と思っています。

よろしくおねがいします。

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