江戸で誕生した「さらしなそば」

11月5日に行われたさらしなの里のそば祭り。一つの企画で行われた江戸ソバリエ協会理事長でそば研究家、ほしひかる先生の講演では、さらしなそばの由来についてのお話もありました。手持ちの資料も加えて以下に紹介します。(さらしなルネサンス・大谷善邦)
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「さらしなそば」という名前を使って最初にそばを売り出したのは、江戸時代の1789年、江戸の麻布に創業した「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」という店。そばの名前は信州更科なのに、どうして江戸で誕生したのかというと、店の創業者の先祖が信州の保科村出身だったことが関係しています。

創業者は清右衛門という人ですが、先祖は清右衛門さんより100年前、保科村をかつて治めていた大名の江戸屋敷が麻布にあることを頼って、麻布にやってきました。先祖はそばではなく、信州布を行商する仕事をしていたそうですが、100年たって清右衛門さんの時代になると、清右衛門さんのそば打ちの腕前が良く、白いそばをつくることができたので、「更科蕎麦」の店を開きました。

ほし先生によると、そばを外食として人々が食べるようになったのは1600年代後半の江戸。参勤交代で単身で上京する人が増えて外食産業が盛んになり、その一つがそばでした。全国各地のそばが土地の名前をつけ商品として提供されるようになっていたので、清右衛門さんも信州更級郡の地名をそばに使ったと考えられます。先祖の出身地・保科村は、長野県上高井郡にあった村で現在の長野市若穂保科辺りなので更級郡ではありません。しかし、更級郡が近隣で同じ信州であることから、自分が開発した白いそばは、白を強くイメージさせるさらしなの地名を商品名にしたと考えられます。

清右衛門さんの直系の店は現在も麻布にあります。「総本家更科堀井」です。

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