朝廷が親孝行とほめた更級の建部大垣ーゆかり伝承の武冨佐神社

武富佐・正面さらしなの里に姨捨山という名前の山が誕生するときに、大きな役割を担ったのが、更級郡に8世紀に実在した親孝行者の建部大垣(読み方は「たけべのおおがき」あるいは「たてべのおおがき」)と考えられています。当時の国史をまとめた「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記され、親孝行の褒美として「税金を免除された」とも書かれています。
親孝行なのになぜ姨捨と疑問がわくかもしれませんが、姨捨山という物語はもともと、老人の智恵で国が救われ老人を大事にするようになったというインドの仏教説話がはじまりとの説が有力で、親孝行者の存在は、姨捨山の地名を定着させる重要な条件でした。ご関心のある方は次のサイトをごらんください。http://www.sarashinado.com/betsumei/
では、建部大垣は更級郡のどこに住んでいたのか。いくつかの説がありますが、一番目に見える形で伝わっているのが、長野市信州新町・竹房地区の武冨佐(たけぶさ)神社の周辺。竹房(たけぶさ)地区は、昭和の市町村大合併までは、旧更級郡牧郷村の一つの地区だったところです。
地元では、この神社の奥にある古墳が、建部大垣の墓と伝わってきました。昭和半ばの長野市の発掘調査で、古墳は6〜7世紀につくられたという調査結果が出たので、8世紀を生きた建部大垣より前の時代となります。残念な結果ではありますが、 その古さが証明できたのはよかったです。建部という姓は、古代の日本をまとめるために東日本に遠征したヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)と関係があり、軍事を担った一族という説があります。武冨佐神社の「武」は、この一族の働きと姓にちなんだ呼び名と漢字と考えることもできます。この神社には実際、日本武尊も祭られています。
確かなことはわかりませんが、歴史の事実を明らかにしていくときに有力な証拠となるのは、地域に定着した地名です。古墳には立派な副葬品もあり、建部一族にゆかりのある人の墓の可能性も否定できません。武冨佐神社のあるところは、ここをクリックすると地図が現れます。(大谷善邦)

 

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