さらしなの里の一番大きな神社は、千曲市八幡の武水別神社(たけみずわけじんじゃ、通称・おはちまんさん)です。川中島合戦で上杉謙信が戦勝を祈願する文章をこの神社に預け、毎年12月に行われる大頭祭(だいとうさい)というお祭りは、国の選択無形民俗文化財になっている歴史ある神社ですが、参道の入口では「うづらもち」というお菓子が売られています(写真)。
物心がついたときから、両親に「御供(ごく)だから」と言われ、年始の初詣でのときは必ず買い求めて仏壇に供え、みんなで食べてきました。さらしなという地名のスーパーブランド性に気付いて20年近く。このうづらもちはさらしなの地名の美しさ、魅力を体現しているお菓子だと思うようになりました。
うづらもちという名前は、このお菓子を製造販売している「ホテルうづらや」さんによると、昔、神社の境内に隣接する千曲川の河原にたくさんいた鳥のうづらにちなんでいます。小さい頃はそんなこと知らないし、名前の由来にもさして関心はなかったのですが、よく見ると、ほんとにうづらの形です。なめらかなもちのうす皮、まぶしたかたくりこ、上品なこしあん。子どものころからのこのお菓子の印象は、「さらさらすべすべ」「すーっとのどの奥に溶けていき、あー極楽極楽…」。これから1年がスタートと思えるような体験だったと思います。神聖、清澄、純白を尊ぶ神社にふさわしいお菓子、すがすがしさと躍動感のさらしなの世界にぴったりです。
うづらやさんにお菓子の由来を詳しく尋ねました。始まりは江戸時代。武水別神社が火事にあって再建されたとき、神社の本殿の重要な彫刻のひとつとしてうづらが刻まれました。それもよりもずっと古く、平安時代には木曽義仲が戦いでの勝利を喜び、この神社に水田を奉納。その水田で収穫された米でもちをついてふるまうお祭りも続いているそうです。このように武水別神社ではうづらともちの関係が深いことから、うづらやさんの江戸時代のご先祖が「うづらもち」をつくったのが始まりだそうです。
神社のうづらの彫刻は本殿の内側の大黒柱にあるそうです。本殿は外側も立派な彫刻で飾られており、探したところ、西側の屋根近くにうづらの彫刻がありました。「粟穂(あわほ)に鶉(うづら)」と呼ばれるデザインで、粟は実がたくさんつき、鶉もたくさん卵を産むことから子孫繁栄のありがたいデザインだそうです。彫刻は、立川和四郎富昌という江戸時代の彫刻家の作。この人は江戸時代にやはり火事で再建された京都御所の彫刻もまかされるほどの腕前の職人だったそうです。この文を書くにあたっては、諏訪史談会発行の「立川流の建築」(細川隼人さん著、1975年)などを参考にしました。(大谷善邦)