初めての一俵俵(いっぴょうだわら) 一人前の証だった

 今は国の重要文化的景観になり、レジャー感覚で稲作が体験できるオーナー制度もある「姨捨の棚田」ですが、人力が頼りの時代は家族総出で耕作し、運搬も大変でした。その時代のことを知る千曲市羽尾5区の上水清さんが自身のブログに文章と歌をアップしました(https://blogs.yahoo.co.jp/gb1306490/folder/1200236.html)。当HPにも転載させてもらいました。写真は1950年代ごろの「姨捨の棚田」。上水さんが初めて一俵俵(いっぴょうだわら)を背負った13歳のころより少し後かと思われます。車が入れる道はまだあまり整備されていません。クリックすると拡大します。

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 太陽が山の彼方に沈むと一気に闇が迫ってくる。同時に天空の月や星がにわかに存在感を示すようになる。この月の光を頭上から浴びると、足下に影を落とす。その揺らぐ影を目で追いながら、肩に食い込む背負子の痛みに喘ぎ喘ぎ、一人俵を背負って棚田の坂道を登る少年の姿を想像することができるでしょうか。

 暗くなるまで黙々と働き、帰り道、背負子で荷揚げをする少年の光景は、現在の日本列島のどこを捜しても見られない。            

 私は、こうした光景がどこにでも見られる時代に生まれ育った。私は13歳の秋、一俵俵を背負子で背負うことができた。「一人前になったなー」、と褒められて嬉しかった記憶がよみがえる。

 荷揚げを成し遂げ、重みと肩の痛さから解放されたときの、あの何とも言えない解放感と達成感は、その後の私のいかなる体験にも勝るものとして身体の奥深くに記憶されている。私の「依って立つところ」となった。

 昭和30年代の中頃から日本は高度経済成長期に入り物質的には豊かになるが、それ以前の昭和20年代は私の幼少期であった。私がつぶさに見て来たその頃の棚田での家族の生活の日々は、忘れられない懐かしい思い出として脳裏に焼き付いている。宿命を背負って一途に生きていた貧しくも心豊かな人間の生き様がそこにはあった。人力だけによる労働は、土と水と雑草との格闘であった。しかし、棚田のあちこちで働く人達の表情は、苦しい状況下にあっても決して暗いものでは無かった。朴訥(ぼくとつ)とした中にも明るさと強さがあった。貧しさと厳しい労働、私はそれがとても愛しい。

 そんな世代の生き様を称えたい思いと、忘れがたい記憶を留めておきたいとの願いで詩を書き綴った。

 

 棚田の家路 (偲ばれし棚田の暮し)

           作詞 上水 清   作曲 宮阪富雄

 1、母さんは 坂道 急ぎ夕げの支度する

  疲れた身体を擦りつつ

  かまどの煙に涙ぐんで 

   腹をすかした 子供らに麦飯炊いた

   わたしは 見てた  重荷を背負った 人生を

 2、 父さんは月の明かりで田んぼを起こす

   腰の痛みに 耐えながら

  手と手につば付けて 鍬振り下ろす

  わが子の未来 背負いつつ踏ん張りこらえ

   わたしは見てた 重荷を捨てない 生き方を

 3、 ばあやんは腰を かがめて石臼廻す

  しわしわの手首に力を込めて 

  ゴロゴロゴーロとこうせん挽いた

  孫のおこびれ作るため心を込めて

  わたしは見てた 一途に生きた人生を

 4、 じいやんはわら打ち仕事草履を作る

  わずかな小銭を稼ぐため 

  冬の寒さが身にしみる

   額のしわは耐え抜いた人世の証 

  わたしは見てた   宿命背負った 人生を 

5、 姉さんははた織り仕事 涙をこらえ

  貧しい人世を知るが故  

  あかぎれこすり夜更けまで 

  小さな夢にすがりつつ愛しき人よ

   わたしは見てた 心豊かな人生を

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